辺野古四日目最終日(216日)
この日は午前中の便に乗って大阪へ帰る予定だったので7時半頃にテントをあとにしました。高速バスが来るところまで親切に車で送ってくださいました。 那覇空港に着いてから沖縄タイムスの新聞を買いました。5日に受けた私たちの取材が記事になっていると知って、二人で大喜びしました。 飛行機から見える沖縄本島と海を期待していたのですが、まさか睡魔に負けて関空に着くまで窓の外を一度も見ずに帰ってしまうとは予想外でした。 家に帰りしばらくは放心状態で、無気力でしたし、辺野古に関する問題や社会問題以外のことに関してはどうでもいいと思うようになってしまいました。いままで自分が何を考えて生活してきたのか忘れましたし、友達と何を話して盛り上がってたのかも忘れました。この四日間、全てが辺野古中心に回っていて、それが抜け切れていないのだと思いました。これもまたいつか慣れたら「いつも」の生活になるんだろうなと。避けられないことであるのはどうしようもないです。でもこれからしていくことははっきりしたし、それをやらないで時間の流れに身を任せていくことは違うと思いました。これからの私たちの義務は伝えていくこと、もっとたくさんの人に知ってもらって行動まで持っていくことです。行動すればなにか変わります。反対に、何かを変えたいなら行動するしかありません。だからまずは身近な人に「これ状況を変えたい」と思ってもらうことです。頑張ります。これを読んでいるあなたにも行動という力があります。一緒に頑張りませんか。辺野古はまだ終わりません。沖縄から基地がなくなるまで沖縄の闘いは続きます。基地はいらないと声を上げ続けること、止めません。私も県民の意志の勝ちを諦めません。
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辺野古三日目(215日)
朝5時に起床、一時間半かけて真っ暗な中、歩いてゲート前まで行きました。こんなに時間がかかると思ってなかったし、思ったより暗くて怖かったので歌いながら歩きました。車はほんと便利ですね。まあ、いい散歩になったと思っておきます。 昨晩聞いていた通り、海保の車が続々と新ゲートに来ました。みんな体当たりの勢いで車に迫っていき、「帰ってください。海を壊さないでください。」と抗議しました。轢かれるかもしれないけどみんな必死でした。機動隊が出てきて、機動隊の壁が出来て押しやられてしまったので、結局海保の車を通してしまいました。 午前中はゲート前に座り込んで抗議し続けました。機動隊が出てきて強制排除(座り込んでいるひとをひとりずつを数人で剥がして排除していくこと)し始めました。座り込みのかたまりの外側からどんどん運ばれていきました。みんな腕を組んで剥がされまいとしますが、やはり機動隊数人の力には敵いません。機動隊が男性ばかりなので、女性には触れないように言うと、セクハラになるかもしれないのでそうしてくれました。連れて行かれた方は道の隅にかためられ機動隊に囲まれました。これは2時間ほど絶対に出してくれないそうです。トイレもだめだそうです。排除の際、隣に一緒に座っていたひとは震えていました。 わたしたちはそのあと宿に戻りました。名護市内へ連れて行ってもらい、とても楽しい時間を過ごしました。はじめて自分が沖縄にいることを実感しました。なぜかTSUTAYAに寄って『toilet』というSASPLさん一押しの映画を借りて宿でみんなで観たんですが、「これはみんなで観ると価値が薄れる映画、でも一人でじっくり観るとすごくいい映画」という意見で満場一致でした。気になる方は是非ひとりで観てみてください。洋画で、もたいまさこが出演している映画です。彼女は二言だけ話します。 次の日の朝私たちは辺野古を出る予定だったので荷物を持ってゲート前へ向かいました。私はJapan Timesのイギリス人記者と仲良くなったので、キャンプシュワブの横にあるApple Townを一緒一回りし、歴史を少し教えてもらいました。Apple Townは昔キャンプシュワブが出来たときに米軍兵がよく使っていた町です。当時のキャンプシュワブのチーフの名前がAppleだったのでそう名付けられたそうです。今は廃れた建物ばかりでしたが、当時はネオンが煌きバーやレストランがたくさんあったようです。その建物に薄く英字表記の店の名前が残っていました。暗いときに行ったので、異様な雰囲気でした。 みなさんに今晩が最後だと伝えると送別会をしてくださいました。寒い中日付が変わるまで肩を組んで歌って踊って、疲れました。でもすごく良くしてくれて、歓迎してくれて暖かかったです。辺野古に来たときの不安はなくなっていました。それより、今度また来たとき覚えてくれてるかな、なんて厚かましいこと思ってしまいました。ぱいっか。のメンバーの一人は寂しさとみなさんの暖かさのあまり涙ぐんでいました。この夜もなにもなく、テントで朝まで寝ました。 wakoto 辺野古二日目(214日)
早朝4時半に地響きと爆音で目覚めました。昨晩言ってたトレーラーかと思い、飛び起きましたが、トレーラーではなくて馬鹿デカイ米軍の装甲車でした。それも一台ではなく何台もズラズラとキャンプシャワブの新ゲートに入っていきました。嘉手納基地から訓練を終えて帰ってきたものだと思われます。これが一般道路をほかの車に混じって走っている、これが今の沖縄なんです。 朝7時から恒例の”朝の挨拶”、第一ゲート前の機動隊に向かって抗議を始めました。これは毎朝一時間ほどやっているそうで、「我々は決して基地建設反対を諦めないぞ、機動隊に屈しないぞ」との意志を見せるためだそうです。『圧殺の海』を見てから、どのようにこの第一ゲートが以前の姿から今のゴテゴテの城塞になったか知りましたが、現在、第一ゲート前から歩道まで出ている白いじゃばらゲートが城塞のいちばん外になっています。それによじ登って機動隊に抗議したり、よじ登れない人はじゃばらの隙間に体を入れてゲートを動かせないようにしました。落ち着いて行動するし、ちゃんと経験のある方の言うことを聞いて怪我しないように注意もするのですが、やはり心臓はどきどきしましたし、怪我をするかもしれないとか、機動隊に力づくで持っていかるかもしれないとか思いました。あといちばん恐かったのは、私が足でまといになっているかもしれないと気づいたときです。自分のせいで誰かほかの方が怪我してしまったら、って考えるとなかなか一歩が踏み出せず、傍観者の立ち位置で見ていました。声を出すだけでも力なんだよ、と山城さんが言ってくれたのでなにか言おうと思ったのですが、何を言ったらいいのかわかりませんでした。こう言おうか、ああ言おうか、と考えてる時、ふとこれが現地の怒りとアウトサイダーの怒りのレベルの違いなんだと気づきました。現地の方が張り上げる抗議の声はいつも的確で感心するばかりでした。自分はまだ生ぬるい危機感しか持っていなんだと思い知りました。 その後、大浦湾が見える浜へ12人ほどいけると聞いたので、便乗させてもらいました。辺野古ブルーの応援と海保に暴力はやめるように海に向かって叫びました。声は届いてないかもしれないし、海保の船も小さくて見えないようなものだったので、まるで見えないものに立ち向かってるようでただ声を張り上げてるだけに見えたかもしれません。でも実際気持ちはすごく強かったし、海保の船とゴムボートに小さなカヌーひとつで向かっていく辺野古ブルーの勇気に逆に励まされました。 宿へ戻り、お昼ご飯を食べに行きました。『さらばんじ』という巷では有名な地元のレストラン(?)に行き、もりもり食べました。おかずの量がすごくて、お皿ももちろん大きいのでどのメニューもお盆からはみ出て来ました。美味しいしお腹いっぱいになったし、楽しかったです。ぱいっか。のメンバーは、「ふ~ちゃんぷる~めっちゃ美味しい!」って言ってました。おすすめらしいです。 またゲート前へ夕方6時頃に行きました。しばらくして、基地建設のためのボーリング調査中の大浦湾を監視している海上保安庁の人(海猿)の宿舎と車を見つけたと連絡がゲート前に届きました。海保は辺野古ブルー(カヌーで海に出て海上で抗議をしている人のこと)を必要以上の力で弾圧していて、規制範囲外であっても辺野古ブルーを見つけ次第確保し、何キロも遠い沖合まで連れて行き放置したり、馬乗りになって怪我をさせたり、カヌーに飛び乗り転覆させたりなどしてきました。その海保はキャンプシュワブの新ゲートから出入りしてて、どんな車に乗ってくるかわかったので、ゲート前でこの事態を止められるのではと聞きました。一部のゲート前のひとが海保の車確認に行きました。 22時頃までテントで過ごし宿へ戻りました。その後特になにも起こりませんでした。 wakoto 辺野古一日目(213日目)
この日のことを時系列に書いていきたいと思います。 朝一番の関空発、那覇空港行の飛行機に乗りました。片道五千五百円ぐらいのチケットでした。12時半前には那覇空港に着陸し、窓からは滑走路横に海上保安庁の大きな倉庫がいくつか見えました。 77番名護行の高速バスに乗り、約一時間半かけて世冨慶というバス停で乗り換えのため降り、近くの小さな食堂でお昼ご飯を食べました。阪神タイガースのキャンプが近くにあるらしく、私たちが帰るときにその食堂を営んでいらっしゃる御夫婦に、野球の応援ですか、と聞かれました。なんて答えようかと少し迷いました。沖縄でも基地建設に賛成する方もいらっしゃいますし、軽々しく辺野古へ行ってきますというわけにもいかないと思い、緊張しました。結局、この御夫婦に辺野古へ行きますと言いましたが、あらと少し驚かれただけで賛成か反対かなどの言及はされませんでした。これから路線バスで辺野古へ向かうことを伝えると、路線バスは本数が少ないから気をつけてね、と教えてくださいました。 運良くバスがすぐ来ました。ファミリーマート横のバス停で111番の路線バスに乗り辺野古へ出発。辺野古へ向かう途中、キャンプシュワブゲート前を通り過ぎました。車窓から見えた米軍基地は異様な光景でした。初めて見た景色でどう受け止めていいのかわかりませんでした。座り込みに参加する方々の顔が車窓から見えました。何人かと目が合って、彼らは何を思ってるんだろう、県外から来る人のことをどう思うんだろうととても不安になりました。無計画で衝動的に来たことは無責任なんではという考えが頭にちらつきました。でも逆に、ここまで来たんだから必死でやろう、できること全部やろうと思いました。 「辺野古」のバス停で下車し、そのまま道をまっすぐ下ると海が見えました。丸い綺麗な水平線でした。 横に「テント村」と書かれた看板がありました。めっちゃ小さかったので、教えてもらえるまで気づきませんでした。テント村は8時から16時までやってます。テント村で活動なさる男性の方に辺野古の歴史と今の現状を40分程かけて話してくださいました。知らないことも多くありました。政治は全部ちゃんと理由があって遂行されていて、辺野古に基地を造ることにも、日本がアメリカに尽くしていたいというとても自己中で自分勝手な理由があることも再認識しました。国民、県民の血税をつぎ込み、サービス精神でなんでもかんでもアメリカに提供する勝手な官僚たちに心底腹が立ちました。また、もともと沖縄県民が稼いだお金が基地に化け、今もこれからも県民を苦しめるという事態を目にし、私は苦しくて仕方がなかったです。 話を聞き終えると、たまたまリデモ(京都のRe:democratiaという団体)さんのメンバーに遭遇しました。辺野古を知った経緯とか、頑張ろうねとか話しました。初対面でしたが、同い年であるとか、同じ目的を持って沖縄に来ているとか、あとはやはり同じ考えを持って行動していることにとても親近感を覚えました。心強かったです。 その後、ゲート前テントに徒歩で向かいました。ゲート前の方に車で宿まで送ってもらいました。海と風の宿という宿に着き、またゲート前へ車で向かいました。 埋め立て資材を搬入するトレーラーが20台ほど確認したとの連絡が入りゲート前に急に緊張感が走りました。よかったことにこの日は結局トレーラーが来ませんでしたが、もし大きなトレーラーを目の当たりにしていても体を張って阻止するできたか正直わかりません。怖いと思うと思いました。 この日はゆんたくるーという沖縄の学生の団体が、企画するゲート前のご飯パーティーで沖縄そばを食べました。わいわい同年代の方とお喋り(沖縄ではゆんたくという)をして楽しく夜を過ごしました。この日はテントの中に寝袋と毛布に包まって寝ました。 wakoto |